武相荘
ちょっとした白洲ブームなのだとか。
先日はテレビドラマまでやっていた。
いやたしかに、もう何年も前のことになるが書店に積まれた本の中にTシャツ姿の次郎氏の写真を見たときは、あまりの格好良さにしばし眺め入ってしまった。
ことわっておくが私は常日頃、男の「見目形」に本気で惹かれることはない。でもあの時はけっこう本気で見ていたんじゃないかと思う。
あるとき叔母の家へ行くと次郎氏の細君である正子氏の「目利き」本を叔父が熱心に読んでいた。
叔父自身絵を描き、当時の私もちょっとした、決して積極的とは言えないような理由から素人陶芸を習っていたものだから私にもその本を薦めてくれたりした。
元来、古いもの好きである。というか古くなって/古くなるほどに味の出るものに魅かれるといったほうが正確かもしれない。
街並み、建物、家具、素材なら木、紙、布裂、土もの…
だからその後、ふたりの住処である武相荘を知ってからはその命名のエスプリも含めていっそう興味を引かれるようになった。
9月の連休中、たまたま旧白洲邸のある鶴川近くへ家人の用向きで出かけたので帰りがけに寄ってもらった。
古い茅葺き屋根の家、庭先には大きな木が一本。
家具、敷物、多くの蔵書、そして日々日常愛着を持って使われていたであろう生活の中の様々な物たち…
財力がなければできない家である。
さりとて、財力をかければできる家でもない。
本質…
何が本当か、何が善いことか、何が美しいことか、本質を考えるとはそれらについて頭ではなく実践を通じて考え抜くこと…
先日読んだある文面が思い浮かんだ。美術工芸や民芸の本ではない、経営戦略の権威とかのビジネスコラムである。
いや、この文脈、コラム以前にも何処かにあったぞ。
そうだ、池田重子さんの「美の世界」、それからこの春学んだ着物の着こなし講座のテキストにも一脈通ずるものがあったはずだ。
人にとっての真・善・美、善は善悪など道徳、法律、慣習など拠るところがある分わかりやすいかもしれない。
それに対し真と美はともに哲学の領域だ。
思考と感性、一見相反する位置にあるようで明確な基準がない点はどちらも同じだ。
基準のないものにははてさて、どう接したらよいのか。
哲学などといえば小難しいが、要は「頭ではなく実践を通じて」考え抜く、やはりそういうことではないだろうか。
たとえば着物の着こなしを例にとるなら、これはもうひたすら実践である。
甚だ私的な部分である「装い」もまたその人にとっての真・善・美とは何か?を問いかけるものといえる。
どういうふうに着たいのか、何がその人にとって美しいのか、ただ実践すればよいのではなく常にそういった意識を持つことは言うまでもない。
そのうえで納得のいくまで繰り返し、見つけること。
結局そうした経験がものをいう。
人も時代もどんどん移り変わってゆく。
彼らが生きたのは今からほんの数十年前のことだが、その時とは比べようもないスピードで物事が進んでゆく。
時代はまさにCHANGEであり、それもまた当然のことである。
そうした変化の中で残りつづけるのは何だろう。
目先の利や一方方向に作られたり与えられたりするものではないはずだ。
やはり「ひと」を見据え、「ひと」にとっての本質を備えたもの、ではないだろうか。
パーソナルな持ち物や家だけではない、世の中の仕組みも企業・国家の戦略だって結局は同じことなのではあるまいか。
秋も深まってきたせいだろうか、つらつらとこんなことを考えさせてくれた武相荘であった。
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